再開第4回と第5回の団交でなにが問題だったか

団交のなかでどうしても譲れなかった問題について。

再開第4回:確認書類に署名をしないこと


再開第4回では、3年で嘱託教職員を雇い止めにするメリット・デメリットについて、前回の読みあげの記録を書き起こしたレジュメを用意して話しあいをはじめた。



開始早々に理事会側の3名にレジュメを渡して確認をもとめる。

理事「これでいい」と即答。(読んだのか?)

組合「では署名を」(3回もかけて話した合意事項ですから)

理事「なぜしなきゃいけないんだ、合意してるからもういいでしょう」
組合「なぜできないんですか、合意してるならできるでしょう」


↓(議論中。。。*1)


組合「録音しているから口頭にする。読みあげるからそのあとで『確認した、まちがいない』と言ってください」

↓(読みあげ)

理事「やっぱりいくつか表現が異なっているように思う」
組合「!!!」*2


…*1について


あらためて言うまでもないが
署名というのは合意したことを認める基本的な行為で
「署名できない」とは「合意しがたい」ということ。


専務理事は「なぜしなければいけないのか」を執拗に聞いてきて
署名をしたらなにかに「利用」されるのではと恐れているようだった。


こちらとしてはこの合意文書を前提にして
これからも雇い止めの問題について話しあうつもりだった。


でもこの文書に合意(署名)が得られなければこれからも
メリットがどうだとかそのつど確認をしなくてはいけないし
さらにそのたびに「いやそうじゃなくてうんぬん〜」という
専務理事の二転三転するつじつまあわせにつきあわないといけない。
はっきり言って時間の無駄だし非合理的だ。


それにしても、
専務理事はつねに
「3年でそれ以上更新はしないという契約書にサインをしているんだからそれは合意だろう」
と強引に言う。

私たちはどれほどその文言がいやだったとしても
生活のことを考えて譲歩してサインをしてしまう。そうしてきた。


専務理事が「どうして合意しなければいけないのか」と問えるのは
それに合意(ほんとうは譲歩)しなければ、生活や将来が完全に闇に閉ざされる、という脅しがないからだ。


いま、働くひとの「契約」は
「いやならサインしなければ…って、そしたら生活はどうなるのか」
という自分自身の恐怖や周囲の無言の圧力を前提に、
雇うほうの都合のよいようにどんどん労働条件を切りさげられている。

…*2について


専務理事はレジュメをくばっただけのときはたいして内容も見なかったのに
署名となった途端にあせって「合意してるから署名はいらないはずだ」という理由で署名を拒否して
さらにこっちがレジュメを読みあげて合意とみなす、とした段階でようやく
「異議がある」と言い出した。そんな卑劣な対応が団交で見られるとは思わんかった。


働くがわと雇うがわの、署名に対するこの態度のちがいは
「雇用する権利」を「権限」や「権力」にまで都合よく拡大解釈して
雇うがわが勝手に自分にあると勘違いしている権力にあまえているからだ。


そしてそのあやまった権力にも、それを平然と行使できる無自覚さにも、私たちはあきれつつも強い怒りを覚えている。


再開第5回:学生(あるいは6人目〜)が話しあいに参加すること


その強い怒りを覚えているところに再開第5回。
すでに日づけは3月30日。組合員はなしくずしに雇い止めされるのだろうという
不実な対応への怒りもあるなかで話しあいがはじまった。


会議室のドアの向こうに支援者がはじめから1、2名ほど(のちにはもっとたくさん)いた。
前回の団交では次回の団交の条件として参加人数を確認はしていない。


その1、2名をなかに入れられないか、という交渉からスタート。


「あっせんでそのように決まった」(←あっせんは「あっせん案」がまとまることで「決まった」です。間違ってる)
「組合員数の過半数くらいは参加を認めるということで5名としている」
「5名を6、7…としていったらキリがない」


専務理事は合理性とか納得性を重視するかのように話すのだが
その説明はいつも合理性も説得力もほとんどない。
それでもそれを押しきればなんとかなると専務理事に思わせているのは
その役職にどんな適用範囲も超えるような
「権限」や「権力」が存在しているという思いあがりだ。*1


いつもそこだ。そこで専務理事はまちがえる。
その権限や権力はそんなふうに使う目的で認められているのではない。


この思いあがりをやめてもらうことからしか、きちんとした話しあいは始められない。


確認はしなかったけど
こういう気持ちは組合がわとして団交に参加したひとには
共通していたと思う。


議論が平行線をたどるなかで、さらに専務理事は
学生を話しあいに参加させたくない理由を話しはじめた。


まず「教員と学生は、学生からの敬意を前提に教員から授業を施される関係にある」
という時代錯誤もはなはだしい理屈を背景にして
(↑ちなみに葉山副学長がすっごくだいすきなFDとか初年次教育とかにはそんなものは一切書かれていない)
「労働待遇の主張だけを全面に出している教員を学生が目にすれば、学生から教員への敬意が損なわれる」という配慮をあげた。


私たちが学生から得ている敬意を心配しているのだという。ほんとうにそうであればさっさと3年雇い止めをやめてみろっつーの。


そのうえ、私たちが「単位をちらつかせて学生を動員する(釣っている)かもしれない」ということを言い出した。


そちらが団交拒否をちらつかせて
都合のいいように話しあいを展開できる力を誇示しているからといって
そんな悪趣味を私たちまで持ち合わせていると想像するとは、さらに悪趣味。


また「学生の団交参加を認めることは大学の提供するべきサービスとしてふさわしくない」とおっしゃった。べつに学費を納めているかわりに団交参加の権利が与えられてるんじゃないだろうよ。


問題は、ハナから権力の認識や教育観が理事と私たちのあいだでずれまくっているということ。
精華大学ではたとえ権力を振りかざす人間がいたとしてもこんな教育観がまかりとおったためしはなかったはずだということ。
権限の集中しているひとがこんな貧困卑劣な発想をもとに権力行使し教育を語ること。


これらすべては自分たちが雇い止めされるのとおなじくらい
団交の時間をたくさん割いてでも話しあうべき重要なことだった。
(話しあっても無駄なのかもしれない、という失望はたえず忍び寄ってくるが、とりあえず無視)


たとえ3年で雇い止めという制度がなくなったとしても
こんな状況なら、私たちが大切にしたい働きかたやひととのかかわりかたなど
近いうちに失われていくだろうから。


けっきょく話は平行線のままで団交の残り時間も30分ていどにまでなった。
さきの報告のとおり、次回団交の日取りも決めないまま、理事会側の団交参加者は部屋を出ていった。


そこからさきのはなしは、また次の記事で。
団交拒否されたとツイッターでつぶやいたが、そこにいたる経緯はその記事を待ってください。

*1:こういうのパターナリズムというのでしょうか?