学校

いまはドイツのリューベックという町にいて
博士論文を書いたりしているのですが
すこし離れた分
京都のことも昨日までいたボーンホルム島の学校のことも
落ち着いて思い出せる気がします


ボーンホルムのホイスコーレはもともとは教育をお金のある階層の特権ではなくて
農家で働くひとたちのために開こうという発想で
100年以上まえにできたところなのですが(日本でも昔いくつかできたそうです)
いまは農家の子どもたちというよりもいったん社会にでて
リタイアしたあとのひとたちや
大学に入るまえにどんなことをしようか考えているひとたち
大学にいるけどいまいちこれからどうしようか考えているひとたちなど
いろいろな理由とバックグラウンドを持つひとたちが
それぞれの関心にしたがって(美術の学校なので音楽、陶芸、絵画、ジュエリー[週末だけ]など)
10月から4月の半年間
一緒に学んでいます


定員60人のところにいまは50人くらいがいて
エストニアグリーンランド、日本、アメリカ、デンマーク
出身地もいろいろ
緩やかな英語とデンマーク語、あとそれぞれの国の言葉が飛び交っている


論文を書いているところだから
説明がはじまると終わらない傾向があるのできょうはひとつの印象だけ書いて
図書館に行くことに



陶芸にしても絵画にしても24時間教室が開放されていて
いつでも思いついたときに製作ができるのは
ほんとうにいいなあと思った


ふかいふかい雪に閉ざされている分
ちがう世代や、ちがう環境で生きてきたひとたち
言葉をかわすことが養分になり
思いついたときにひとりで作品に思う存分没頭できる


そういうふうにできてきた作品は
どんなものであってもまず自分自身の没頭が夢中さがかたちになっているということで
生きていくなかで確実に意味のあるものになる
批評も他者にとっても意味も
作品に没頭した時間や完成させた喜びに比べたら
ちっぽけなものだろう(とりあえず)


一方で京都精華をふりかえってみると
施設使用届けをだしても10時までしか学校にいることもできなくて
論文にしても作品にしても完成したものは
ちいさなちいさな学科(ときに人間)の基準で縦といわれたり横といわれたりする
そんな評価の基準を身体化させることをなかば目標としているのではないかという批評たちが
教育ということになっているのだから
なんだかとてもこっけいだ


そして教えているひとたちの半分以上が非正規っていう現状に
ぜんぜん疑問を感じていない理事たち―――に話がもどってきたところで
そろそろ出発です


図書館はどんなところだろうか
(yurri)